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語って気づいた自分の普通。人には理解されない普通。

  • コーチング

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photo credit: Stuck in Customs via photopin cc

日本コーチ連盟の心理専修プログラムに通っています。コーチングの一環として自分の内観を深めること、これがこの心理専修プログラムの目的です。講義のなかでは、自分としては普通と感じることが他人から見ればとても普通とは思えない、逆もまた然りなことをたくさん体験しています。

2014年4月7日現在、全4回のうち2回の講義が終わりました。この時点で自分の内面について気づいたことを書いていきます。

他人にまったく興味がない。自分にも興味がない。

他人が何を考えているのか、その人がどんな人なのか。他人に対してまったく興味の持てない自分がいます。

「わからない」ではなくて、興味がない。コーチ曰く、「話を聞いてくれそうな癒し系の雰囲気があるけど、実はまったく話を聞いていない輩」とのことですが、まぁ当たってます。相手はこんなふうに聞いてほしいだろうなぁ、という感じはなんとなくわかりますが、話を聞きたいと思っていないので、話の内容はほとんど頭に残っていなかったりします。

他人に興味のない上に、実は自分にも興味が持てません。むしろ、自分自身のことにすら興味が持てないのだから、他人に興味が持てるわけがないと言ったほうが正しいと思います。自分がどうしたいとか、どんなことに「好き」と感じるかなど、自分に関して無関心で、いつも「めんどくさい」と感じています。

善悪の基準があいまい

例えば、人が殴られている場面にばったり遭遇したとします。そのときわたしは、「殴るほうも悪いけど、殴られたほうも殴られるなりの悪いことをしたのだろう」と判断します。殴ったほうが悪いと決めつけず、どちらも平等に扱いたいという心理が働いています。

これは「善悪の線引をあいまいにしたがっている」ということです。誰が見ても悪いこともすぐに悪と決めつけず、「何か理由があったんじゃないか」とか「悪いといっている方も悪いんじゃないか」というふうに感じます。そうすることでお互いの関係をイーブンにして、そのこと自体ををなかったこととして頭のなかで処理することもよくやります。

理由は「葛藤を避ける」ため

他人にも自分にも興味が持てない、善悪をあいまいにする、これらの裏にあるものは、「葛藤を避けたい」という心理です。

相手に興味を持つ、自分に興味を持つことと、それと同時に心のなかに葛藤というストレスを生むことになります。このストレスはわたしにとって耐えられるものでない、文字通り「生き死に」に関わるものなので、極力排除しようとします。

また、「悪いのか悪くないのか」を判断してしまうと「行動を起こさなければならないのか」という葛藤が生じるため、善悪そのものをないものにします。善悪のつかないものは「そもそもなかったもの」となり、行動を起こす理由は消滅します。先ほどの例で言うと、「そもそもどちらが悪いということじゃないんだから、わたしが止めに行く必要もないだろう」と考え、ただその状況を眺めるのです。

自分でも気づかなかった自分の普通

ワークショップを通して考えなければ、わたし自身こんな考え方をしていることに気づきもしなかったと思います。自分にとってあまりに普通なことなので、あえて考えようとしていませんでした。また、この考え方がまったく理解できないと感じるタイプの人がいることも、はじめて知りました。逆に言うと、その人の考え方でわたしが理解不能だと感じることも少なからずあるわけですが。

このように、自分の普通に気づくことと、それが他人にとっては普通ではないことに気づくことが、この心理専修の目的です。こんな機会でもなければ自分に意識を向けることも、相手と普通を比べることもなかったでしょう。普通に気づいているか気づいていないかでわたしの感じ方や捉え方はまったく違ったものになるだろうと思います。

次回もまた書きます。

    最後まで読んでいただき ありがとうございました。

    何か一言添えてシェアしていただけると幸いです。

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